「存在しないもの」からのシグナルを聴き取る (内田樹 “最終講義”)
思考するというのは「自分が語ること」を聞くということですから、
「存在しないもの」との関わりなしには、僕たちは思考することさえできない。
「存在しないもの」との関わりなしに、我々は人間であることができないのです。
目に見える事。
効用がある事。
分かりやすい事。
てっとり早い事。
そのような価値観が声の大きさと合わせ、一定に迎えられる。
または、それらの情報が見えない強制力として、「無条件に良いこと」であるかとごとく働いている。
例えば、本一つとっても。
そこには「投資」と「見返り=実利」のような単純な二元論での評価が、無意識のうちに「刷り込まれて」いたりもする。
自分自身もそうなのですが、そういった環境に無自覚になっている自分。
そしてその状況に怖さを感じている自分。
今という時代においては、かなり多く人がいるのではないか、と思います。
内田樹氏の近年の講演を集めた書籍「最終講義」を最近読みました。
この本には、効用はほぼないと思います。
また脳が沸き立つような知的刺激に関しても、少ないと思います。
が、「耳を澄ます」という事。
ときに「一歩下がって、腰に重点を置き、モノを見てみる」という事。
そして「いかに今の自分が、情報に従属しているかを知る」という事。
において、今この時代に読むべき本が手渡されたかのように思えました。
例えば、文学研究を行う意義について、「存在しないものへ、耳を澄ます事の正気さ」という文脈でその理由が伝えられている箇所を挙げてみます。
「存在しないもの」との関わりなしに、我々は人間であることができないのです。
それは音楽が、「もう聴こえない音」がまだ聴こえていて「まだ聴こえない音」がもう聴かれている体験のように。
または言葉が、発語が終わり、空気中に消えてしまった音声を耳に残し、この後の言葉を予測して理解しているように。
そして思考が、「自分が語ること」を聞くように。
「存在しないもの」と私たちはいつも関わっている、という事が伝えられています。
「コミュニケーション能力」というと、目の前にいる人が発する言葉を誤らずに聴き取るとか、自分の伝えたいことを簡明に伝わるようにすることだとふつうは思います。
でも、僕はそれは違うと思う。
コミュニケーションというのはもっと広い。
目の前にいる人だけでなく、もっと遠く「存在しないもの」とのコミュニケーション能力もそこに含まれなければならない。
文学研究者は「存在しないもの」を専一的に「存在しないもの」として扱っている。
その点では、他の人文科学や社会科学よりはだいぶ「正気」の程度が高い。
どんなふうに人間は欲望を覚えるか、どうやって絶望するのか、どうやってそこから立ち直るのか、どうやって愛し合うのか・・・そういうことを研究するのが文学研究です。
だから、文学研究が学問の基本であり、それがすべての学術の真ん中に存在していなければいけない。
僕はそう思っています。
「存在しないもの」へ目を向ける想像力が若者には必要なんだよ、ということを伝えられている気がしてなりません。
この本には効用はありません。でも贈与があります。
内田氏が本の中で伝えられている「後続世代に「パス」を送る」こと。
それそのものが、この本なのだと思います。


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