わかりやすさの前提条件 (「広告」いま求められる「わかりやすさ」ってなんだろう?)

水曜日, 3月 23rd, 2011. Filed under: Book Inspiration

「わかりやすさ」
「リーダブル」

最近、とみに聞く機会が増えたキーワードだと思います。

「では、わかりやすさ、とはいったいなんなのでしょう?」。
これは、とくに「今」において、とても根源的な問いだと思います。

例えば、物事のあらましをかんたんに説明する、という意味?
何だか違うような気がします。
そういった表層レベルな話では決してない、という事は世相的に直感として感じられるのではないでしょうか?

情報は、インターネットで検索を少しでもすれば、いくらでも平等に手にする事ができる。
今、この瞬間も大量の新たな情報が更新され、自分の頭の中も同時に更新されていく。そういう毎日。

では「なぜ、今、分かりやすさなのか?」
これは、私たちに重くのしかかっている、そしてとても切迫した本質的な質問ではないでしょうか?

その根底にある疑問について、4月号の「広告」誌で特集されており、とても面白く読みました。

広告 2011年 04月号
koukoku

が、ここでは、その冒頭にある内田樹氏の「わかりやすさ」に至る前提条件について書かれた文章に、ハッと胸に突き刺さるものを感じました。

いわば、わかりやすさ、の一歩手前にある、さらにたいせつな話。
それを一部引用したいと思います。

書き手が読み手の知性を自分よりも低いと想定して書いている文章は、どれほど簡単な言葉で、平易な理屈で貫かれていても、決してリーダブルな文章にはならない。
新聞の論説や解説記事はその好個の例である。

そのような文章は、それを「理解したい」という読者の側の知的な欲望を活性化しない。
そこには「読者が知らぬことを教えよう」という教化的な善意はあるのかもしれない。
けれども、読者に関する敬意はない。
そのことを読者は数行も読まないうちに感知する。

「バカにもわかるよう書いてやっているのだ」という書き手のシニスムは、行間から、逃れられない腐臭のように漂い出てくる。
読者はそれを感知して「理解したい」という意欲を失うのである。


これを「なんだ精神論か」、と一蹴することは決してできないと思います。
なぜか?

敬意は言葉の表層には現れない。
語彙にも修辞にも理路にも論件にもかかわらない。
それは「私が語るこの言葉を私はあなたには理解してもらいたいと思っている」というシグナルのかたちを取る。

リーダビリティというのは、「読みやすさ」のことではない。
「読んで欲しい」という書き手の懇請のことである。


「広告」誌で、伝えられているある共通点は、
「表層上の情報群の底辺にある『本質』について答える回答、または本質を考えるための知識」が差し出されている状態を「わかりやすさ」として指しています。
そしてそれこそが現代において必要とされているものである、という趣旨のものです。

それが、サンデル教授の、もしドラの、池上彰氏の好評価という現象として現れている。

この提示内容は、とても核心が突かれたものであると、自分も思います。

しかし、いやだからこそ、本質を差し出そうとするならば、そこには相手が本当の本当は、何を求めているのか?についての深い洞察が必要不可欠な前提条件になるだろうと思います。
だからこそ、誌面の冒頭でこのような指摘がなされている。

結果論かもしれませんが、そう捉えることもできるようにも思えます。

「読んで欲しい」という書き手の懇請と、そのための読み手への深い洞察、という前提条件。
結果としての本質的な回答=わかりやすさ。

読み手に「ある気づき」を誘発する、良質な問いと特集だと思います。

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