情報と命令 (「切りとれ、あの祈る手を」 佐々木 中)

火曜日, 3月 22nd, 2011. Filed under: Book Inspiration

これほどまでに自己嫌悪に陥るほど胸に刺さりながら、開け放たれ、眩しく、感動的な書物は久しくあっただろうか。
そして、これほどまでに頑固で、素直で、強く、そして一途な思想家は現代に果たして居ただろうか。

最終章を読み終えた後の衝撃含め、是非多くの方に体感して欲しいと思う、素晴らしい書物です。

「切りとれ、あの祈る手を—〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話」佐々木 中 (著)
sasaki

一部、特に自分にとって衝撃的だった「情報」についての内容を引用してみます。

知、情報というものは、これほどまでに人を病み衰弱させるものなのかと思いました。

あらゆることを説明できる自分に到達するために、知と情報を得なくてはならない、日々最新のものにそれを更新しなくてはならない。

「堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落なのだ」。
ハイデガーも「情報」とは「命令」という意味だと言っている。
そうです。
皆、命令を聞き逃していないかという恐怖に突き動かされているのです。

様もなく情報に肥え太りはしゃぎ騒ぐ批評家か、みすぼらしく自陣へ立てこもりやせ細る専門家か。
あるいは、その場その場にあわせて、この二つの仮面を手早く取り替えながら歩むか。

知に携わる限り、われわれには、このような貧しく卑小な選択肢しか残されていないように見えます。
この現在という時代にあっては。


自分のような類いの人間、情報を追い続ける事ばかり(ここで言うところの「命令を聞き逃していないか」と突き動かされている人間)の類いにとって、胸に突き刺さるような指摘が、ここにはあります。

ここで「では」と思います。
では、他にどんな選択肢があるというのでしょう?

著者はそこで「本を読む」という選択を取ります。
なぜか。
この「なぜか」の理由が、この著書の趣旨です。

また少し、一部を引用してみます。

それは本を読んだからです。

読んでしまった以上、そこにそう書いてある以上、その一行がどうしても正しいとしか思えない以上、その言葉に導かれて生きる他はない。

だから私は情報を遮断した。

無知を選んだ。


本を読む、という行為への一途な生き方。情報の、命令の、手下とならない生き方の選択。
それが、ここでは述べられているのです。

本を読むということは、下手をすると気が狂うくらいのことだ、と。
なぜ人は本をまともに受け取らないのか。
読んで正しいと思ったのに、そのまま受け取らず、「情報」というフィルターにかけて無害化するのか。
おわかりですね。
狂ってしまうからです。

書くということ、読むということは無意識に接続するということである。

だからカフカの小説を読むということは、半ばカフカの夢を自分の夢として見てしまうということです。

ならば、そこで「自然な自己防御」が働いて当然でしょう。


が、それでも人は読まざるを得ない、書かざるを得ない。
それについて、文学こそが革命の根源である、という趣旨の元、言葉をめぐる旅が始まっていきます。

平易な言葉で、そして熱を帯びた言葉で、その熱が頂点に達する最終章。
知らぬ間に胸が突き動かされてしまう反復の文体によって、素晴らしいメッセージが最後に届けられます。

名誉欲のためでもなく、金銭欲のためでもないとするならば、どうして発表しなくてはならないか。
それは ー 読んでしまったからです。


何故書くのか、何故書き続けるのか。
書き続けるしかないじゃないですか。他にすることでもあるんですか。


ヴァルター・ベンヤミンが言っています。
「夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは、橋でも翼でもなくて友の足音だ」と。

足音を聞いてしまったわけでしょう。
助けてもらってしまったわけでしょう。
なら、誰の助けになるかもわからないし、もしかして誰にも聞こえないかもしれない。
けれど、それでも足音を響かせなくてはならないはずです。
響かせようとしなければならないはずです。

一歩でもいいから。


「読書の醍醐味」とは何か?を感じる為に。
「情報」でなく「孤独」を自分の唯一の忠告者とする為に。

多くの方へ、自信を持ってお勧めしたいと思います。

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