呪とか気とか。或いは「そこ」でしか感じ得ない「場の力」について (斎場御嶽と久高島)
琉球王国最高の聖地とされる「斎場御嶽」。
その御嶽の目の前に浮かぶ島が、
琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、
琉球神話での聖地の島とされる「久高島」。
今日は、その二つの霊場へ行って感じた「場の持つ力」についての話。
御嶽(うたき)とは、神さまが降臨し、鎮座する聖域のことを指すのですが、
まず「斎場御嶽」で触れたいのは、「体験するプロセス」の仕組みについて。
この一連の体験が素晴らしいのです。
まず、亜熱帯性な植物が満ち満ちた森を入って行くところから始まります。
そこにある心地よさと、一方でじっとりと重苦しい不安感。
それを感じながらしばらく進み続けた先に、ぱっと森が開け、
三庫裏(さんぐーい)と言われる、巨大岩のトンネルが同時に見えたときの、
圧倒感と、ふらふらとトンネルへ誘われていく感覚。
そして、そのトンネルをほぼ無意識のようにくぐり、左にふと視線をやった時、
神の島「久高島」の姿に、唐突に出逢い、ぱあっと邂逅していく時の感覚。
この一連の緩急、とかく巧妙な体験設計だと思います。
続いて、沖縄の聖地中の聖地、神話の島である「久高島」。
ここでは、「神話」がもたらすある種の「呪の気配」についてを少々。
その最も象徴的な場が、祈りの場としてだけに存在する「クボー御嶽」。
ここは、一般の人間が入り込むことを拒む力が、とても感じられます。
はっきり言って、怖い。
これ以上進んではきっといけない、なにか良くない事が起こりそうだ、と
肌で感じられる怖さ=「畏怖」が、自分のようななんの霊感もない人間にも確実に、伝わります。
一方、島の北の突端「カベール」にあるのは、その対極にあるような理想郷。
一直線に進んだ道が、突然途切れた後で、ぱあっと開けた視界にある、素晴らしい景色。
言葉で言い表せきれないほどの、気持ちのいい場所です。
圧倒的な、全身で感じる開放感。
このバランスが、この島に対して不思議な気持ちにさせている一因だろうと思います。
その場にわざわざ行かないと、感じることが出来ないような類いの体験。
情報として伝えられることは、あくまでその断片でしかないこと。
そこに、最も価値があるのが、今の時代なのだと思います。
そして、その共有体験は、さらに結びつきを強固にさせます。
ちょうどディズニー体験のように。
「その場でしか体感できないことの力」について思い知る一つの場所が、霊場。
そんな気がします。
ちなみに、羽田でふと機内で読む用に買った「陰陽師」では、
「呪」とか「気」について、ずばりと言い表された台詞がありました。
「たとえばここに、人の形に似た石があるとするな」
「うむ」
「それはつまり、人という呪をかけられた石だ。
似れば似るほど強い呪がかけられていることになる。
石の霊が、人の霊性をわずかながら帯びることになる。
それだけならどうというほどのものでもないが、それが人の形に似ているからと、
皆がその石を拝むことになれば、その石に、さらに強い呪をかけてしまうことになる。
帯びる霊性も強くなる。」
「ははあ」
「時としてあやかしをしたりする石は、そのような、人に何年も何十年も拝まれた石だな」
つまりは、「ここは聖地である」と想うこと。
その想い続けられた年月、そこに溜まり続けられた人の想い、つまりは呪。
これらが、「気」となっているのだろうと。
これも、そこへ出向かわないと感じられない体験の一つなのでしょう。
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